宮本惇氏自叙伝抜粋
「アイスコーヒー」


作業隊の起床前に起き出して、熱いチャイ(煮出したインド茶)を天秤棒で担ぎ、営庭の四カ所に設けられたボーチカ(給油用の樽)を一杯にして歩くことから一日が始まるのである。
そして、夕刻に咽喉をからして帰ってくる作業隊の人達の要求に応えるだけの湯茶を準備したあと、さらに翌朝の分として大釜二杯分の湯を沸かしておかなければならないのである。
その間に、山裾までの水汲みは無論のこと、食堂作業や昼食運搬という大役を要領よく片つけなければならないのだから時間に追われ通しの毎日だった。
翌日の湯茶が間に合いそうもないときには、炊事係の小川さんと二人で釜炊きをしながら夜をあかしたこともあった。
おかげで、夜警に巡回してくる警戒兵のトドノフや警備隊長ストロイ爺さんとも顔なじみになってしまった。
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五月に入って急に日が長くなり始め、暑さも厳しくなって、湯沸かし場を訪れる人達が俄然多くなってきた。
かねてから、喫茶店風の雰囲気をいくらかでも味わえるようにしてみたいと思っていたので、思考をこらした数枚の「アイスコーヒー」と書いた紙片を窓ガラスに貼ってみたところ、意外と人気が集まったが、一旦人気が出始めると、さらに次の手を考えたくなるものである。
一日のうちに何百人となくやってくるお客さん達に、二、三人だけでもよいから、甘味のある紅茶でびっくりさせてやったらどうだろう?と、・・・・・配給でもらったわずかばかりの砂糖を入れてみたら、このアイデアがまたもや大当たりだった。
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おかげで、帰りがけに、野山に咲き誇っている草花をつんできてくれるお客さんが増えてきて憩いの場にふさわしい雰囲気になった。
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気候もよし、作業隊の気持ちも明るくなり、次第に作業がはかどるようになった。
もちろん、入ソ当時の悲惨な時代にくらべてのことであって、決して呑気な気楽な生活になったわけではない。
依然として、シラミ、疥せん、壊血病、発疹チブスに悩まされ続けていた上に、寝不足がたまってきて、次第に倦怠感におそわれるようになった。
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六月、七月はシベリアの真夏である。三時に太陽が顔を出し、夜半十二時過ぎまで明るいので、作業隊は十二、三時間の作業をやって作業パーセントを強要されることもあった。
いつまでも明るい夏の夜空にうかれて故郷の話につい夢中になっていようものなら、翌日は寝不足がたたってパーセントはがた落ちになること必至であった。
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毎夜のようにタイガーにこだまするロスケのコーラスの哀調が、われわれの心にほどよい安らぎを与えてくれたとでもいうのだろうか、遠く近く、高く低く、老若男女を問わず唱和して盛り上がってくる彼ら彼女らの素晴らしい歌声を聴いているうちに、幽玄の世界へ吸い込まれるようにして寝入ってしまうこともあった。
四月に雪の中から芽吹き始めた草木も、わずか三カ月で成長が止まり、今が最盛期である。
すでに、道路作業隊が作りあげた丸太道路も、奥地へ向けて十キロ程も完成していたころである。
しかし、連日の過労による病気や怪我で、ハバロスクの病院に送られたり、電気技術者の転出などで、収容所の人数が次第に減ってゆき、自分が取り残されてゆくような淋しさと焦りを感じ始めていた。
と同時に、毎夜のように、山裾を大量の人間を乗せたトラックが奥地へ向けて入ってゆくので、いよいよ「われわれも近いうちにさらに奥地へやられるにちがいない」という不安が高まってきた。
暑さとともに再発したタムシの痒痛と、奥地へ送られる不安でいらいらしている折も折、昼食運搬を終えて収容所の裏山の坂を上がってくると、微かな音楽が聞こえてきた。
昔きいたことのあるメロディーだった。
一瞬自分の耳を疑ったけれど、
「お江戸日本橋  七ツ立ち、
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いったい何が起きたのだろう?
私は足速に馬を引いて坂を登った。。

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